「マウリッツハイス美術館展」鑑賞の覚書


上野の東京都美術館で開催されていた
マウリッツハイス美術館展」を観に行く。

オランダの観光美術館のコレクションだけあって、
近世オランダ、フランドル絵画の傑作が展示されていた。

レンブラントの作品は10点以上、
ルーベンスブリューゲル、フランス・ハルス、
デ・ホーホ、ヤン・ステーン、ブリューゲルそして
ヨハネス・フェルメール
「真珠の耳飾りの女」(青いターバンの少女
「ダイアナとニンフ」を鑑賞することができた。

青いターバンの少女”には
修復のせいか、予想より厚塗りでくすんでいるが、
それが抑えの効いた美しさとなって
「イコン」のような雰囲気がある。
色使いは極めて巧みで、少ない絵の具で
最大の効果を発揮している。

「ダイアナとニンフ」はイタリア絵画のような
構成と色使いだった。ルーベンスに近い。


アンソニー・ヴァン・ダイク肖像画は見事だ。
(特に衣服の装飾、ディテールの細やかさとシャープな表現)

風景画は、ヤーコブ・ファン・ライスダール
「漂白場のあるハールレムの風景」がとりわけ美しかった。


初めて知ったが、
ピーテル・クラースゾーンとヴィレム・ヘーダの
静物画は傑作。
植物、金属、ガラスなどの質感を
写真以上に精密に描いている。
グラスの「映り込み」まで巧みに描写している。
絵を書く人間は、絵画技術の基準を高くするため、
観たほうがいい。

【美術】贋作、悪徳の芸術


 贋作とは、常に芸術につきまとう影、芸術という美徳の存在なくしては
成り立たない悪徳である。なぜなら、人類が、自分たちの歴史、美しさを
描きとめた作品、天才と近づくための作品を所有したいと願う限り、贋作
者は嘲るような気取り笑いを浮かべ、その需要に応えるべく存在してきた
のだから。
芸術とは、盲目的崇拝物や、天才が一度かならず手を触れた聖遺物を売る
商売なのだ。騙されやすい買い手に贋作者が提供するのは、芸術ではなく
「本物の保証」である。

(中略)


 才能も良心の咎めも希薄な芸術家に、贋作は富のみならず、ひそかな
名声をもたらす。己れの作品が、ルーヴル美術館メトロポリタン美術館
テイト・ギャラリーなどの壁に掛かっているのを知ることは、たとえ世間
の誰一人が知り得なくても、極上の復讐となる。
一たび美術館に並べれば、贋作者の正体が暴かれる可能性は低い。


フランク・ウイン著/小林償ワ子・池田みゆき訳
『私はフェルメール -20世紀最大の贋作事件-』より抜粋

仮説を立てる力


 仮説を立てるときに必要なのは、多彩な知識と経験です。
けれども、そのままでは使えません。自分の知識や経験を
抽象化し、その分野に特化したささいな部分から再びもう少し
抽象度を上げて、それを比喩として使えるようになって
はじめて、そこから仮説を立てることができるようになります。

(中略)

ひとつひとつに個別具体的な回答を得ないと気がすまない人がいます。
そういう人には、仮説を立てる習慣がないのです。
どんな問題でも、まずは問題をしっかりと立てて、そこにどのような
解の可能性があるか仮説をつくる、その繰り返しが必要です。


勝間和代『ズルい仕事術』より抜粋

ヴァレリオ・オルジャティの展覧会


図面や図版といったすべての情報は床に置かれている。
そして模型は樹のように立っているから、会場の中を歩き回っていると、
それらが自然に視界に入ってくる。展覧会という場所で、
人が本当に文章を読みたがっているとは思わない。
本でできることだからね。


展覧会という場所で彼らが必要としているのは、
感情に強い印象を与えるなにかだよ。
だから、物理的なモノとの出会いをつくることが重要になる。
この展覧会では、空間的な模型が図版と組み合わさることで、
人々の頭の中に建物のリアリティを産み出すんだ。


建築家ヴァレリオ・オルジャティのインタビューより。
http://www.momat.go.jp/Honkan/Valerio_Olgiati.html

(半)透明なもの


実際われわれは、光をそれ自体として見ているわけではない。
そうではなくて、何か下にあるもの(委ねられたもの)において
見ているのであり、これが(半)透明なものである。
(半)透明なものは、色を持たないために、それ自体としては
もちろん目には見えない。さらに、何も持たないために、
あらゆるものを受け入れることができ、その点で視覚において
媒介となることができる。それゆえ、(半)透明なものは、
つねに外部にある色によって見えるものになる。
外部にあるものの色が、(半)透明なものにおいて、
精神的で志向的(印象的)なものに変わるのである。


アルベルトゥス・マグヌス『デ・アニマ注解』の引用
 /岡田温司『半透明の美学』より抜粋)

影と痕跡と鏡像


 絵画(的なるもの)の起源をめぐって、西洋では古くから、
三種の神話が語り伝えられてきた。影と痕跡と鏡像(水鏡)がそれである。

  
 古代ローマ博物学プリニウスが語るところによると、
戦地に赴く恋人の影をなぞったのが、絵画の起源とされる。

一方、キリスト教では、生前イエスがハンカチに顔を当てると、
そこに染みのようなものが痕跡として残ったとされ、それが
イコンの起源として語り継がれてきたという歴史がある。
ビザンティンでは「マンディリオン」、カトリックでは
「ヴェロニカ」と呼びならわされてきたものがそれである。
具体的に言うなら、前者は光と影の痕跡―カロタイプの遠い起源―
であり、後者は血と汗の痕跡―ドリッピングの遠い起源―である。

最後に、水面に映る自分の姿に恋をしてしまったギリシア神話
美少年ナルキッソスは、アルベルティによると、絵画の発明者と
みなされる。

(中略)

 影と痕跡と鏡像、これら絵画の起源とされるものを、それぞれ
別のことば、とくに作用を意味する用語で言い換えるとすれば、
順に、投影(プロジェクション)、接触(タッチ)、反省=反射
(リフレクション)ということになるだろう。


 さて、これらの神話で興味深いのは、いずれも、絵画的イメージが、
対象を直に模写したり模倣したりした結果によるのではなくて、
媒介物をあいだにはさむことによって生まれたとされていることである。
投影にせよ接触にせよ反省=反射にせよ、それらの作用によって
あらかじめ二重化されたものが、対象と絵とのあいだの媒介項として
想定されているのである。
(中略)

三つの神話に共通するこれらの事実は、わたしには、きわめて意義深い
もののように思われる。というのも、影と痕跡と鏡像という媒介物は、
それぞれがまた文字どおり、二つの世界を媒介しているからである。

すなわち、影は、あの世とこの世のあいだを、痕跡は、聖なるものと
俗なるもの、現前と不在のあいだを、鏡像は、現実と虚構のあいだを、
といった具合である。

それゆえ、三つの媒介物から生まれたとされる絵画もまた、
これらの世界のあいだを媒介するものとなるはずである。

 さらに、不思議なことに、影にせよ痕跡にせよ水鏡の像にせよ、
わたしたちにとって、透明でもなければ不透明でもなく、どちらかと
いうと、限りなく半透明に近いイメージとして存在してはいないだろうか。

それらは、硬くて厚い物質や肉体の不透明さから引き剥がされて、
まるで薄い半透明の膜のようなものとなって、何処とも知れず
漂ってはいないだろうか。


岡田温司『半透明の美学』より抜粋)





 

写真、見るためのもの

 写真は一人の人間の写す単独の像である。

 と同時に、絵画やインスタレーションといった美術内部にとどまる
ジャンルとは違い、数多くの機能を社会のなかでになっている。
それが、「写真とは何か」という問いを複雑にするだろう。
記録、伝達、アリバイ、複写……と多様な役割を果たすほか、出版物
だけではなくいくつもの産業生産品の表面を飾って、写真は生活環境
のなかに偏在するまでになっている。一つの単語で指し示すには、
写真という名の領域は、広がりがありすぎるのではないだろうか。
デジタル映像をも「写真」と呼ぶことになっては、なおさらである。
この単純の事実が、写真を語ろうとするときにまず突き当たる
困難なのだと思える。


 そして圧倒的な量がある。無限数の写真が、休みなく堆積しつつある。
その渦中に、なおも「写真」を考えるとはどういうことだろう。
 おそらく、「写真とは」ではなく、個々の写真について語るほかはないのだ。
 

 写真は実益に寄与するだけのものではない。
写真はただ、見るだけのものである。

十九世紀に発明されたときから、写っていることの驚き、
写った像を見る悦びは、実用の埒外にいつもあった。というより、
実益をさておき、写真を見るという魅力こそが人々を引き付け、
無数の写真を堆積させ、言葉を触発させてきたのだろう。
それはデジタル映像時代となった現在まで変わらず、写真の
存在理由になっている。


 ただ見るための写真、膨大な写真堆積のなかに埋もれながらもなお、
より深く見せようと意図する写真がある。
いまだ見えないでいるものを探し写そうとする、そうした写真を指すのに
「芸術」という語をあてたとしても、それは間違いとはいえないだろう。

というよりも、そうした実益にならない意思こそ、
芸術と呼びならわされてきたのだ。


(光田由里『写真、「芸術」との界面に』より抜粋)