写真、見るためのもの

 写真は一人の人間の写す単独の像である。

 と同時に、絵画やインスタレーションといった美術内部にとどまる
ジャンルとは違い、数多くの機能を社会のなかでになっている。
それが、「写真とは何か」という問いを複雑にするだろう。
記録、伝達、アリバイ、複写……と多様な役割を果たすほか、出版物
だけではなくいくつもの産業生産品の表面を飾って、写真は生活環境
のなかに偏在するまでになっている。一つの単語で指し示すには、
写真という名の領域は、広がりがありすぎるのではないだろうか。
デジタル映像をも「写真」と呼ぶことになっては、なおさらである。
この単純の事実が、写真を語ろうとするときにまず突き当たる
困難なのだと思える。


 そして圧倒的な量がある。無限数の写真が、休みなく堆積しつつある。
その渦中に、なおも「写真」を考えるとはどういうことだろう。
 おそらく、「写真とは」ではなく、個々の写真について語るほかはないのだ。
 

 写真は実益に寄与するだけのものではない。
写真はただ、見るだけのものである。

十九世紀に発明されたときから、写っていることの驚き、
写った像を見る悦びは、実用の埒外にいつもあった。というより、
実益をさておき、写真を見るという魅力こそが人々を引き付け、
無数の写真を堆積させ、言葉を触発させてきたのだろう。
それはデジタル映像時代となった現在まで変わらず、写真の
存在理由になっている。


 ただ見るための写真、膨大な写真堆積のなかに埋もれながらもなお、
より深く見せようと意図する写真がある。
いまだ見えないでいるものを探し写そうとする、そうした写真を指すのに
「芸術」という語をあてたとしても、それは間違いとはいえないだろう。

というよりも、そうした実益にならない意思こそ、
芸術と呼びならわされてきたのだ。


(光田由里『写真、「芸術」との界面に』より抜粋)