証明、精神の眼


証明は、定義からの必然的な帰結であり、少なくとも
この定義されたものがもっているひとつの特質を、
結論として導き出すものである。

しかしその定義が名目的であるかぎりは、どの定義からも、
それぞれひとつの特質しか導き出すことができない。
他の特質を証明するには、他の対象、他の観点をそこに導入し、
外部のものにその定義されたものを関係させなければならない。

まさにその意味では、証明は、この当のものにとって
外在的な運動にとどまっている。けれどもこの定義が
実質的な定義の場合には、証明は、そのもののもつ
すべての特質を導き出しうるものに変わり、同時に
このとき、証明はそれ自身ひとつの知覚〔「精神の眼」〕
と化す。

すなわち、その当のものに内在する運動をつかむのである。


このとき証明は、外在的な観点とは無関係に、
定義とひとつながりに連結するものとなる。

もはや知性がものを〔外から〕説明するのではなく、
もの自身が知性のうちにおいて
「おのずから開展(=説明)をみる」
ようになるのである。


ジル・ドゥルーズスピノザ 実践の哲学』より抜粋)