余白の芸術

 アートは詩であり批評でありそして超越的なものである。
 そのためには二つの道がある。


一つ目は、自分の内面的なイメージを現実化する道である。
二つ目は、自分の内面的な考えと外部の現実とを組み合わせる道である。
三つ目は、日常の現実をそのまま再生産する道だが、
そこには暗示も飛躍もないので、私はそれをアートとはみない。


 私が選んだのは二つ目の、内部と外部が出会う道である。
そこでは私の作る部分を限定し、作らない部分を受け入れて、
お互いに浸透したり拒絶したりするダイナミックな関係を作ることが
重要なのだ。
この関係作用によって、詩的で批評的でそして超越的な空間が
開かれることを望む。


 私はこれを余白の芸術と呼ぶ。


 ところで私は、いろいろな画家の絵面の中に見られるような、
ただ空いている空間を余白とは感じない。
そこには何かのリアリティが欠けているからだ。
例えば、太鼓を打てば、周りの空間に響きわたる。
太鼓を含めてこのバイブレーションの空間を余白と言う。


この原理と同じく、高度なテクニックによる部分的な筆のタッチで、
白いカンバスの空間がバイブレーションを起こす時、人はそこに
リアリティのある絵画性を見るのだ。
そしてさらにフレームのないタブローは、壁とも関係を保ち、
絵画性の余韻は周りの空間に広がる。

(中略)

 だから描いた部分と描かない部分、作るものと作らないもの、
内部と外部とが、刺激的な関係で作用し合い響き渡る時、
その空間に詩か批評か超越性を感じることが出来る。


 芸術作品における余白とは、自己と他者との出会いによって
開く出来事の空間を指すのである。 


李禹煥『余白の芸術』より抜粋)