未来のスピリット

 手塚治虫が「鉄腕アトム」のイメージを造形しようとしたときに、
そのイメージの源泉になったものは、昆虫の世界でした。
子どもの頃から親しんでいた昆虫の社会をとおして、彼は生命の世界の奥深い構造を垣間見てきたのです。地球上の生物の中でも、昆虫ほど種の多様性できわだっている生物もいません。小さな谷筋を捕虫網を手に蝶々を追いかけていくだけでも、二十何種類ものめずらしい蝶々に出会うこともまれではありません。昆虫はひとつひとつの生物の存在が、巨大な「生命」なるものの自己表現の様式であり、その「生命の自己表現」は単調や均質を嫌って、多様性の産出ということを自ら楽しんでいるようにさえ、感じさせるのです。


 手塚治虫はそういう昆虫の世界を、陶酔感をもって見つめていた少年でした。その感覚は、アメリカ先住民が世界をながめるときに感じた感覚に、よく似ています。この世界にあまねく偏在している「グレートスピリット」は、巨大なうねりのように平原を移動していきながら、無数の、そしてひとつひとつがみんな違っている「スピリット」を生み出していきます。そのスピリットが身に甲冑のような殻をまとえば、昆虫の出現です。


 昆虫採集の体験は、ある種の「超越性」の体験をもたらす可能性を秘めています。単純で純粋な流動体から、その流動体の自己表現のようにして、つぎからつぎへと生物の多様な形態が出現してくる、その「底」の領域に触れるとき、二十世紀の少年であっても、感覚と思考は、はじめてその心にスピリットが出現したときの現生人類の脳の興奮状態を再現できるのでしょう。私たちの脳はいまだに野生状態にあるのです。


その感覚の野生状態の中から、鉄腕アトムのイメージは生まれた、と手塚治虫は語っています。


中沢新一カイエ・ソバージュ4「神の発明」』より抜粋)