影と痕跡と鏡像
絵画(的なるもの)の起源をめぐって、西洋では古くから、
三種の神話が語り伝えられてきた。影と痕跡と鏡像(水鏡)がそれである。
古代ローマの博物学者プリニウスが語るところによると、
戦地に赴く恋人の影をなぞったのが、絵画の起源とされる。
一方、キリスト教では、生前イエスがハンカチに顔を当てると、
そこに染みのようなものが痕跡として残ったとされ、それが
イコンの起源として語り継がれてきたという歴史がある。
ビザンティンでは「マンディリオン」、カトリックでは
「ヴェロニカ」と呼びならわされてきたものがそれである。
具体的に言うなら、前者は光と影の痕跡―カロタイプの遠い起源―
であり、後者は血と汗の痕跡―ドリッピングの遠い起源―である。
最後に、水面に映る自分の姿に恋をしてしまったギリシア神話の
美少年ナルキッソスは、アルベルティによると、絵画の発明者と
みなされる。
(中略)
影と痕跡と鏡像、これら絵画の起源とされるものを、それぞれ
別のことば、とくに作用を意味する用語で言い換えるとすれば、
順に、投影(プロジェクション)、接触(タッチ)、反省=反射
(リフレクション)ということになるだろう。
さて、これらの神話で興味深いのは、いずれも、絵画的イメージが、
対象を直に模写したり模倣したりした結果によるのではなくて、
媒介物をあいだにはさむことによって生まれたとされていることである。
投影にせよ接触にせよ反省=反射にせよ、それらの作用によって
あらかじめ二重化されたものが、対象と絵とのあいだの媒介項として
想定されているのである。
(中略)
三つの神話に共通するこれらの事実は、わたしには、きわめて意義深い
もののように思われる。というのも、影と痕跡と鏡像という媒介物は、
それぞれがまた文字どおり、二つの世界を媒介しているからである。
すなわち、影は、あの世とこの世のあいだを、痕跡は、聖なるものと
俗なるもの、現前と不在のあいだを、鏡像は、現実と虚構のあいだを、
といった具合である。
それゆえ、三つの媒介物から生まれたとされる絵画もまた、
これらの世界のあいだを媒介するものとなるはずである。
さらに、不思議なことに、影にせよ痕跡にせよ水鏡の像にせよ、
わたしたちにとって、透明でもなければ不透明でもなく、どちらかと
いうと、限りなく半透明に近いイメージとして存在してはいないだろうか。
それらは、硬くて厚い物質や肉体の不透明さから引き剥がされて、
まるで薄い半透明の膜のようなものとなって、何処とも知れず
漂ってはいないだろうか。
(岡田温司『半透明の美学』より抜粋)